【ひとりごと】or【どこかで誰かと話したこと】で、ほとんどがメモ代わりです。日記をはさみながら気になることや思い付いたことを色々と書こうと思いますが、かなり大雑把に書きますし、比喩表現を使いますので、専門の方からすると「変(正確でない)」と思われることがあるとは思います。また冷たい(厳しい)言葉を使う(らしい)ので、よく「冷たい人」と言われますから、その前提で読んでください。
【武道】全柔連のポスターを見て思ったこと #02
2014年01月23日 (木) | 編集 |
前回の続きです。

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精力善用」は、『いかなる場合でも、その目的を果たすためにもっとも効力あるように己の心身の力を働かせること』という意味です。
色々な場面で効率化という言葉が出てきますが、それは簡単なことではなく、日々の精進によってしか為し得ないことが分かります。
これを柔道の言葉としてではなく、一般的なものとして捉えると嘉納治五郎氏の言葉は現代でも通じるものと感じます。

自他共栄」は、『自己の栄えのみを目的とせず、助け合い、譲り合い、融和協調してともに栄えることを目指すこと』という意味です。
最近、「win-winの関係」という言葉を聞くことがありますが、それに通じるものではないでしょうか。

要するに「効率的な心身の使い方を学び、また皆で協力して皆が繁栄していくことを学ぶのが柔道である」ということです。
それが何故……???と思います。

 (続く)



【注】
 【武道】全柔連のポスターを見て思ったこと #01
テーマ:ひとりごとのようなもの
ジャンル:日記
【武道】全柔連のポスターを見て思ったこと #01
2014年01月16日 (木) | 編集 |
稽古のために武道館に行くと……全柔連の大きなポスターが貼ってありました。
そして
 「柔道は人間教育
 「大人も子供も修行中。
 「暴力の根絶プロジェクト
 「暴力行為根絶宣言
の文字……。

 JUDO-poster01.jpg

 JUDO-poster02.jpg

こんなポスターを作らなくならなければならないことが嘆かわしい……と思います。

そもそも柔道の理念は、
 「精力善用
 「自他共栄
の二つです。

まあ……この二つの言葉の意味が分かっていれば、こんな状態になっていないのでしょうが……。

 (続く)
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【武道】身体の使い方 #03 拳の回転軸
2013年11月25日 (月) | 編集 |
以前、拳の回転について書きました。

その時にこんなことを書きました。【注①】

 空手の突きを放つ時の拳の回転についてです。
 この動作を行う時の回転軸は、薬指をイメージすると回転が良くなります。
 腕を回転する軸は尺骨で、腕を回転させる時は尺骨から薬指を結んだ線が回転軸になります。


先日、知人と話をしていると「何かの本に手の回転の軸は中指と書いてあったが?」という話になりました。
普通に考えれば、そのとおりです。
通常動作であれば、それ(中指が回転軸)で何の問題もありません。
しかし腕に大きな力が加わる場合には、骨格全体で力に対抗する必要があります。
そのため普通の動作とは少し違った要素が加わります。
これが武道の身体操作の要となることだろうと思います(これについても以前、書いたことがあります)。

 そもそも武道的な動作は、日常から外れたものが含まれます。
 だから動作そのものを覚えるために練習を繰り返す必要があります。
 そういう意味では「普通(日常)」の動きの連鎖が"技"なのではなく、「普通」の動きの中に「異常(非日常)」な動作が含まれて"技"になります。


これを身につけるためには、「普通(日常)」の動きでない動作を身体に覚えさせなければなりません。
したがって同じ動作を繰り返し練習する必要があります。


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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)

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【注①】
 ※参考:【武道】拳の回転 #01
【注②】
 ※参考:【武道】拳の回転 #02

【参考】
 ※参考:【武道】拳の回転 #01
 ※参考:【武道】拳の回転 #02
 ※参考:【武道】拳の回転 #03
 ※参考:【武道】拳の回転 #04
 ※参考:【武道】拳の回転 #05
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【武道】身体の使い方 #02-03
2013年08月26日 (月) | 編集 |
前回【注①】の続きです。

そうなると「歪さを残した形」を身体が知っている必要があります。
そうでなければ、打撃に体重が載らなかったり、投げきれなかったり、極めきれない……そういう技になってしまいます。
これは、相手に反撃されるRISKを負うということです、このRISKはできるだけ小さい方が良いわけです。

そこで出て来るのが「」です。
基本の動作を何度も繰り返すことで、一つ一つの技のエッセンスを学びます。
そして型を何度も反復することで、相手と自分の動き……つまり流れの中で何を選択して、どう動くのか?を身に付けます。
その際には、相手との間合いを考えながら応用を学びますので、反復する「型」は歪さが残っていなければなりません
その歪さは、目的を一つと考えるとない方が良いモノだろうと思います。
しかし、間合いによって目的が変わる以上、歪さが残るのは仕方ないだろうと思います。

そういう意味では、武道の動作は普段の生活の動作の延長上にあるものばかりではありません。
普段の動作の延長上にあるものに、歪な動きが入ったものだろうと思います。

でも……これは私見です。
正しいかどうか……わかりません。

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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)

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【注①】
 ※参考:【武道】身体の使い方 #02-02
テーマ:ひとりごとのようなもの
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【武道】Twitterにて
2013年08月12日 (月) | 編集 |
Twitter文字制限
書きたいことが書ききれない……。
ということで、ここで書ききれなかった部分を書いておこうと思います。

※少し前のツィートです。

▼柔道女子日本代表の指導陣による暴力やパワーハラスメントの問題で、柔道連盟の対応に違和感を感じるのはなぜだろう?


これは柔道連盟の対応が中途半端とか……そういう意味ではありません。
別に暴力やパワーハラスメントを肯定するつもりはありません。
これは大前提です。
でも柔道とは?と考えると、そこで教わる(伝えられる)のは身体の使い方であったり、それに伴う思想であったり……です。
それが単に技術を教える(伝える)になってしまっていることが、このような話になっているのではないか?と思ったりします。
まあ……本来、全柔連は講道館とは別の団体ですから柔道そのものに関する団体ではないとも言えなくはないのですが……。

武道に限らず、身体の使い方は師弟関係によって伝えられるものです。
ただの「教える側」と「教わる側」ではありません。
それでは表面的なものしか伝わりません。
キチンと伝えようと思えば「師弟関係」、それしかないと思います。
そこには教わる側の個性は、存在しません。
個性が存在し始めるのは、伝えられた後の話です。
そうでなければ伝承は途絶えることになります。
途絶えないという声も聞こえそうですですが、個性が入ると伝承に歪みが入り込みます(結果として技術も途絶えます)。
したがって師が「これはこう」と言えば、それに疑問を挟むことはできませんし、それに説明を求めることもできません。
師は各々の段階で必要となるものを見極めて与えれるだけの能力が必要ですし、そのような師が与えてくれたものからイメージを作り、それを身体で表現していく、その過程で色々なことがあると思います。
そうなると疑問については、色々と思うことは仕方ないにしても口に出すことが妥当なのか?という話ですし、説明について言えば、このブログで何度か触れていますが、身体の動きや感覚は言語化できない(しにくい)ものですし、無理に言語化しようとすれば間違って伝わるRISKを負います。
要するに……身体の使い方を伝えるという世界は、頭で考えるという世界や単に技術を伝えるという世界とは、そもそも「場」が異なります。
「場」が異なるのですから、そこに存在する論理も異なるのは普通のことなのですが……。

その意味では、監督とかコーチとか……そういう立場で指導することが妥当な世界なのか?という話になります。
『監督と選手』、『コーチと選手』という関係と『師弟』という関係が同一なのか?

まあ……それでも為された行為が単なる暴力やパワーハラスメントであれば問題であることは間違いありません。
ただ師弟関係をそうでない基準で判断して理不尽と言っているのであれば話が違うような気がします。
その辺りがハッキリしないので、あまり言及できないのですが、一つだけ言えるのは、このような話が出た時に常に「教わる側が正しく、教える側に問題がある」ということをベースに考えるのは、本質的には何も解決できないのだろうということです。
多分、違和感の根には、この辺りがあるのだろうと自己分析しています。


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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)




相変わらず拍手コメントの調子が悪いので、こちらにお礼(返事)を書きます。
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【武道】身体の使い方 #02-02
2013年04月18日 (木) | 編集 |
前回【注①】の続きです。

ところが武道の動きは……というと、一つの動きでも間合いによって使い方が変わるため、歪(いびつ)さが残ります。
突きの動作に見えているものが、相手との間合いを変えてみると投げの動作になったり、関節を極める動作だったり……というものが多々あります。
また、全体としては投げの動作に見えるものが、途中で止まると突きの動作になったり……というものもあります。
要するに「一つ一つの動作の目的がハッキリしていない」ということです。
こうなると各々の部分が、各々に動いた結果、全体の動きになって行かざるを得ません。
これでは、歪さが残って当然なわけです。

そういう意味では、
 ・スポーツの動き……目的に対して脳から合理的な動作をするよう全身に命令が行き、その結果として技になる
 ・武道の動き……相手との間合いによって、条件反射的に各々の部位が動き、その結果として技になる
というイメージを持っています(正しいのかどうか……は、わかりません)。

ハッキリとはわかりませんが、これは日本人の思想というか……思考というか……そういうものに関係しているのではないか???と思っています。


(続く)

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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)

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【注①】
 ※参考:【武道】身体の使い方 #02-01
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【武道】試合って……
2013年03月11日 (月) | 編集 |
昨日の記事で、柔道大会でケガ人が出たとのことを書きました。
その時、こんなことを書きました。

アクシデントには違いはないのですが、投げ方を見ていると「試合に勝つための方法」を教わっている子どもが多いように思います。
例えば背負い投げで、低空で相手を回転させれば、投げられる側の頭部が地面と近いところを動きますから、頭が地面に接するリスクは大きくなりますし、受け身を取るだけの時間がなかったりします。
また試合中にキチンと受け身を取ると一本を取られてしまいますから、変に身体を捻って逃れたりしますので、変な格好で地面に落ちることが多々あります。
上に「アクシデントには違いないのですが」と書きました。
たまたま体勢が崩れて……であればハッキリとアクシデントと言えるのですが、何度も同じ子どもが同じような投げ方/受け方をしているのを見ると本当にアクシデントと言って良いのだろうか?と思ってしまいます。
個人的には「そんなことを覚える必要性があるのか……」と疑問に思いますが、目標は各々ですから仕方ないのかもしれません。
でもケガをすることで本人が受けるマイナスの心理を考えると柔道以外にも影響がありそうに思いますし、ケガをさせたとしても心に傷を受けることと思います。
それらを考えると、試合に勝つための技術を教えることが良いことなのか……と思います(そんなことを思っているので、試合用の技は教えないようにしています)。
少し……試合との関わり方を考えないとケガ人は減らないのではないでしょうか?



よくよく考えると……こんなことになるのは『試合に勝つことが、最終地点になってしまっているのでは?』と思ったりします。
身体の使い方、礼や場という考え方等……覚えるべき大切なことは多々あります。
それらは生活の中で役に立つことでしょう。
それらを身に付けるのも武道の目標であり目的です。
試合は、あくまでも稽古で身に付けたことを確認する場であり、そこが最終地点ではないはずだと思います。
しかし武道との関わり方は、人によって異なりますから……。

確かに試合に出る以上は、負けるより勝った方が良いとは思います。
でも……と思ってしまいます。
私が柔道教室に関わって10年以上になりますが、試合に負けたことで怒ったことはありません。
怒るのは、
 ・ケガをした時
 ・普段、稽古していないことを試合でやった時
 ・礼をキチンとしなかった時
のいずれかです。
これまでに一番怒ったのは、試合には豪快に勝ったものの足首を痛めてきた子です。
それ以上に怒るとすれば、相手にケガをさせた時でしょう。

そういうことを柔道教室に通っている子どもや保護者に方と何度か話をしたことがあります。
幸いにも私が関わっている柔道教室では、保護者の方が試合の勝敗に重きを置かない方ばかりなので、試合用の技を教えなくても良いのですが、それでも稽古中には体勢が崩れて畳に顔から落ちそうになるとか、頭から落ちそうになるということは発生します。
アクシデントであれば仕方がないのですが、昨日書いたように例えば
 ・背負い投げで、低空で相手を回転させれば、投げられる側の頭部が地面と近いところを動きますから、頭が地面に接するリスクは大きくなりますし、受け身を取るだけの時間がなかったりすること
 ・試合中にキチンと受け身を取ると一本を取られてしまいますから、変に身体を捻って逃れたりしますので、変な格好で地面に落ちること

のようなことを技術として教えているとすれば、それによってケガが発生したとすれば……それをアクシデントと言っても良いのか?と思います。

これは武道にだけ言えることではないのでしょう。
スポーツ界では、勝つためにケガと闘いながら……ということをよく聞きます。
それが美談として語られたりしますが、それは大人が選択した結果だからでしょう。
それと同じようなことを子どもに持ち込むことがどうなのか?と思います。

大人の世界が、成果や評価に重きを置く方向に向かっていますが、それによって無理をして身体を壊している人がどれだけいるのか?
また無理をさせて身体を壊させている者がどれだけいるか?
試合に重きを置くというのは、結局は成果や評価に重きを置くということに他なりません。

子どもの『いじめ問題』について、いじめる側が一方的に強い力を持っていると発生しやすいということが言われます。
しかし大人の中では、同様の構造によって体罰やパワハラ、セクハラが発生しています。
何かの大会における子どものケガの多くは、大人社会の評価や成果に重きを置くということと同様の構造が根にあり、それによって起きているように思います(私の周りで見聞きした感想です)。
大人の社会を変えないで、子どもの世界を変えられるのか?
Noでしょう。
子どもは、大人の価値観によって育てられます。
そういう構造的な視点を持たなければ、問題を解きほぐすことは出来ないのでは?と思います。

しかし……このような状況が一般的になってしまっていること……その状況がどうなのか?と思っています。


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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)
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【武道】近いところから攻めろ
2013年02月23日 (土) | 編集 |
当たり前のようで、実は出来ないことがコレ(つまり「近いところから攻めろ」)です。
分かりやすい例を挙げれば、
 ・前足をローキックで蹴る
 ・前足を脚払いで攻める
とか……。

空手の後輩を見ていると、わざわざ遠い後ろ足を目がけてローキックを蹴って、自分の体勢を崩してしまったり、当たっても効果が小さいので「当たっただけ」になっていたりします。
柔道教室でも同じようなことがあり、右前同士で組んでいて相手の右足が前に出ているにも関わらず、わざわざ遠くにある左足を狙って大内刈りをしてみたり(当然ですが、上手く掛かりません)……。
前に何か仕掛けて、相手の状態が変化するという前提であれば良いのでしょうが、そういうことなしに仕掛けても効果はありませんし、体勢を崩している分だけ不利になってしまいます。

武道の考え方は、基本はリスク・ヘッジです。
トータルのリスクを小さくすることが前提です。

ところでタイトルに書いた「近いところから攻めろ」ですが、私が教わった時には「近いところから崩せ」とも言われました。
そうなると組んだ状態では、少し話が違ってきます。
組んだ状態で一番近いところは……『掴んでいる』もしくは『掴まれている』部位です。
まず、ここから攻めなければなりません。
当たり前のことなのですが、手での崩しなしに足を出してしまう姿を割と見かけます。

最近、「近いところ!」が口癖のようになっています。


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 (この写真については、こちらこちらをご覧ください。)

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