【ひとりごと】or【どこかで誰かと話したこと】で、ほとんどがメモ代わりです。日記をはさみながら気になることや思い付いたことを色々と書こうと思いますが、かなり大雑把に書きますし、比喩表現を使いますので、専門の方からすると「変(正確でない)」と思われることがあるとは思います。また冷たい(厳しい)言葉を使う(らしい)ので、よく「冷たい人」と言われますから、その前提で読んでください。
【囲碁】囲碁と将棋 #01-03
2019年03月02日 (土) | 編集 |
前回の続きです。

囲碁を打っていると、前回の例の後者の状態(取られているものの盤上に残っている状態)が多いです。
これがどういうことかと言うと……「取られた石がそのまま盤面に残っている」ことであり、失敗した場面を見続けながら進行させるということです。
これは……ツライですね……。
終局まで、失敗したものを見ながら打つことになりますから……。

ただ間違えた場面が残るというのは、失敗を引きずりやすいのですが、逆に失敗したモノを利用して局面を動かしていくこともできます。
所謂「捨て石」にして利用するという考え方です。
「どうやっても取られているなら、被害を最小限にしながら、それらを上手く使って(捨てて/取ってもらって)少しでも有利な状態に導こう」という考え方です。
将棋では駒を捨てると盤面からなくなりますが、囲碁では取られた状態で盤上に存在するという状態が多々出現し、その状態が継続しますから有効利用できます。

将棋でも「捨て駒」という方法がありますが、これは取らせることで相手の形を崩すために「わざと取られるところに駒を置く」というもので、失敗したものを利用するという考え方とは違うものです(囲碁でも同じような考え方で「捨て石」をすることもあります)。

こういう考え方は、社会の色々なところで応用できるものなので、それをゲームの中で学ぶことができるというのが、囲碁や将棋の良いところだと思います。

 (続く)

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【囲碁】囲碁と将棋 #01-02
2018年08月25日 (土) | 編集 |
前回の続きです。

将棋では、取られた駒は駒台に載せられますから、競っている盤面からは外れます。
囲碁では……。
囲碁では「取られた状態」というのは二つあります。
一つは将棋と同じで、盤上からなくなってしまった状態(石の入れ物の蓋に置いておきます)、もう一つは取られているものの盤上に残っている状態(どう手を入れて(追加して)も逃げることができない状態で放置されていること)です。

囲碁で「取られる」という状態について簡単に書くと……。
囲碁では石を線と線の交点に置きます。
そして自分の石から伸びる線を全て相手に塞がれると「取られた」状態になります。

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上記の「盤上からなくなってしまった状態」というのは、左側の黒に囲われた部分のような状態です(黒石で囲われた真ん中が、白が取られたところです【注】)。
そして「取られているものの盤上に残っている状態」というのは、白に囲われている黒のような状態です(こちらは黒が取られています)。
この違いが、後々影響したり……しなかったり……で、囲碁の面白いところです。

前にも書きましたが、そうなると取られない状態というのが発生します。
囲碁ではそのような状態になるように考えながら、陣地を囲います。

 (続く)

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【注】
・本当は斜め上下のところはなくても取ることができますが、右の写真との比較しやすいように石を置いています。
・「前にも書きました」の参照しているところを参考にしてください。
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【囲碁】囲碁と将棋 #01-01
2018年01月17日 (水) | 編集 |
AIが急速に発達し、「まだまだ人間の方が……」と言われていた囲碁や将棋でも、プロが負けてしまうという状態になりました。
本当にアッと言う間に追い付かれました。
すごいスピードで技術は変わっていくものだと……。

さて……以前、「【囲碁】囲碁で思うこと #02-02」で「私が囲碁を打ち始めたのは高校生になってからで、それまでは将棋を指していました。」と書きました。
囲碁と将棋では、考え方が違います
将棋では、最初に配置が決まっており、そこから動き出します。
また各々の駒に動きが決められています。
一方の囲碁は、何もない状態から場面を作っていきます。
一つ一つの石には特徴的な動きはなく、置かれた(打たれた)場所や状況で機能が決まります。
簡単に言えば、将棋の考え方は「育った者を適材適所に使っていく」ということでしょうし、囲碁では「置かれた場所で適材に育てていく」ということだろうと思っています。

そういうことを考えると、囲碁や将棋の考え方は、組織を作ったり維持していくために必要なものではないか?と思います。
そういう考え方が、効率という言葉に押されて行った結果、今のように過重労働の問題が大きくなったのではないか?と……。
時代に余裕があったからなのかもしれませんが、私の職場でも囲碁や将棋が出来る人が多かった頃は、今より人を育てることが上手だったように思います。

 (続く)

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【囲碁】囲碁で思うこと #02-03
2017年11月08日 (水) | 編集 |
前回の続きです。

囲碁でも同じような表現をされることは珍しくありません。
「これで受かっているのだろうが、こんな手は打ちたくない」とか「負けても打たない」とか「死んでも(自分の打った石が相手に取られている状態を「死んでいる」と言います)打たない」とか……。
それは「きれいに勝つ」とか「きれいに負ける」ということでしょうし、特にプロでは棋譜が残りますから、格好悪い手が書かれているものを残したくはないでしょう。
その意味では、「勝てば良い」のではないのだと思います。
まあ……名誉や賞金、商品が掛かっていますから、勝つに越したことはないのでしょうが……。

日本人同士の囲碁は、「勝つ」という目的に向かっているのは間違いないのでしょうが、そこに「どういう勝ち方をするのか?」ということが付加されているように思います。
その意味では、確かにお互いに競っているのですが、どうもお互いで綺麗な局面を作っているように見えたりします。
その辺りは、良い・悪いの問題ではなく、囲碁に向き合う姿勢というか、考え方というか……そういう違いなのだと思います。
それは……多分、国民性なのだろうと……。

そうなると……効率性だけを求める社会は、日本人らしさを失ってしまうのかもしれません。。。

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【囲碁】囲碁で思うこと #02-02
2017年03月04日 (土) | 編集 |
前回の続きです。

基本的に武道(武芸や武術を含みます)は、思想とセットとなっています(別項でも書いたように思います)。
ただの技術体系ではありません。
技術体系と言うのであれば、「どう身体を(有効に)使うのか?」という体系です。
そう考えると「着衣でするレスリング」を柔道と呼んで良いのか?と……。

話が逸れていますが、話が逸れたついでに……。

私が囲碁を打ち始めたのは高校生になってからで、それまでは将棋を指していました。
将棋で「もう少しで勝てる!」という時に安全な手を指すと、後で「決めるべき時にはキチンと決めなさい!」と言われていました。
それに「勝てば良いというものではない」とも……。
要するにキチンと先を読めば数手で終わる局面で、安全策を講じると倍以上の手数が必要になったりします。
それは……言い方は悪いのですが「相手をなぶり殺しにするのと同じ」ということであり、切腹で苦しんでいる者を介錯しないで放置しておくのに等しいと言われました。
その意味で「勝つ時にはスパッと勝ちなさい」と……。
逆に情勢が悪い場合でも同じです。
将棋(囲碁で同じですが)番組で解説を聞いている(見ている)と「こんな手は指したくない」とか「負けても指さない(打たない)」とか……そういう表現をされることがあります。

要するに勝っても負けても……格好悪いことはしないということなのだと思います。

 (続く)

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【囲碁】囲碁で思うこと #02-01
2016年05月06日 (金) | 編集 |
前にも書きましたが、囲碁で「どこに打ったか?」を書き残したものを棋譜と言います(将棋で「どの駒をどう動かしたのか?」を書き残したものも同じように棋譜と言います)が、プロの棋譜を並べてみると色々と感じることがあります。

特に日本人同士で打たれた棋譜を並べてみると……解説を見ながらでもよく分からない手が多いように思います。
強い人同士のものですから、勝つための一手を打っているはずなのですが、どうも日本人同士のものには、それとは違う何か(というと語弊がありますが、他に表現できないので……)が付加されているように思います。。
特に古い棋譜は、「キレイに勝つ」とか……そういう観念を纏った手になっているような気がします。
逆に最近の棋譜や外国人の棋譜を並べてみると、とにかく「勝つため」という目的に沿ったものになっているように感じます。

柔道の試合を見ていると同じようなことを思います。
日本人選手の柔道は、良くも悪くも「キチンと投げる(一本になるように投げる)」とか「キチンと制圧する(抑え込む)ことで勝つことを目標にしているように思います。
一方で外国人の柔道は、前半部分がなくなってしまい、勝つということに特化されているように思います。
それが柔道らしくない技であっても反則でなければ……ということに繋がり、「着衣でするレスリング」と揶揄される状況になってしまったのではないか?と思います。

それを私は「柔道」と「JUDO」の違いと言っているのですが……。

あくまでも柔道は「武道(武芸でも武術でも良いのですが……)」です。
畳があって、ルールがあって、その中だけで競うためのものではないと思っています。
まあ……それを柔道教室で言っても、なかなか理解されないのは仕方ないのですが……。

話が逸れてしまいましたが、この辺りは日本人の気質というか文化というか……そういうレベルの話なのだろうと思います。

 (続く)

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【囲碁】Twitterにて
2015年09月11日 (金) | 編集 |
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書きたいことが書ききれない……。
ということで、ここで書ききれなかった部分を書いておこうと思います。

※少し前のツィートです。

▼囲碁や将棋は、頭を使うという意味では学校の勉強と同じだが、違うのは……答えを出すのではなく、相手と競いながら答えを作っていくということだと思う。スタートは同じでも完成形は一回一回違う。それが面白い。


囲碁や将棋が面白いのは、スタートは同じでも完成形は一回一回違うということです。
将棋盤は9×9、駒が40枚。
碁盤は19×19。
そう考えると多分……組み合わせの数には本来、限りがあるように思いますが、なぜか同じ形にはなりません。
初手から数手は同じ形になることもありますが、どこかで何かが変化して行き……、それが予想できません。
それが学校での勉強と一番違うところでしょう。
そして自分の頭で導き出すのが学校の勉強なのですが、囲碁や将棋は相手がいて成立するものです。
言い換えれば、相手と一緒に……それも競い合いながら完成形に向かっていくところです。
それはアル意味で相手との情報のやりとりを繰り返すことです。
インプットとアウトプットの繰り返しです。
毎回、思いがけないことが発生しますが、なぜか……それなりの形に収まったりするのも不思議なところです。

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【囲碁】古碁(秀策-算知)
2015年04月25日 (土) | 編集 |
久しぶりに一局ならべてみました。
並べてみたのは、秀策が若い頃に打ったものです。
黒が秀策で、この局面。
右辺の黒2子を攻撃されそうな状態になっています。

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間を遮られたくないので、この辺り(もう1路左か、その2路下か隣か……)に手を入れておきたいなあ~と思うのですが……。

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何と……まあ……秀策は、守備ではなく攻撃の手を打ちます。
それがここ。

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いや~~~思い付かないですね……。
絶対に守ってしまいそうなのですが……。

そして二の矢を飛ばして……。

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落ち着いてみると、こんな局面に……。

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最終的には、169手で黒の中押勝ちになりますが、お見事としか言えないですね。
15歳でこれですから……天才は違う!と思うしかないです……。

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先を見て、構想を練る。
色々な変化があるのでしょうが、それらを予測しながら、打ち進めていく。
この能力が必要なのは、囲碁に限ったことではないのでしょうね。
現代のように変化が激しい時代にこそ必要な能力なのかもしれないなあ~と思います。

それにしても……こうして古碁をならべていると棋譜の素晴らしさを感じずにはいられません。
この一局は、天保14年のものですから、今から200年ぐらい前のものです。
それが再現できること、そして学べること……。
棋譜を考えた人に感謝しないといけないなあ~と思います。
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