【ひとりごと】or【どこかで誰かと話したこと】で、ほとんどがメモ代わりです。日記をはさみながら気になることや思い付いたことを色々と書こうと思いますが、かなり大雑把に書きますし、比喩表現を使いますので、専門の方からすると「変(正確でない)」と思われることがあるとは思います。また冷たい(厳しい)言葉を使う(らしい)ので、よく「冷たい人」と言われますから、その前提で読んでください。
【教育】学校という空間
2013年05月30日 (木) | 編集 |
色々な役をしていると「学校」についての不満を耳にすることが多いのですが、その不満の根は「学校」というものをキチンと認識していないところから発生しているように思います。

そもそも学校とは何か?
学校は、個性的な人間を作る場ではなく、あくまでも社会に適応するための能力を身に付けるためのものです。
この認識が足りないように思います。

実は、上記の前段と後段が全くの正反対のことであると理解できれば、学校に対する不満の多くはワガママでしかないと分かると思います。
「社会に適応するための能力を身に付ける」ということはどういうことか?と言えば、誤解を恐れずに端的に言えば「個性を消していく」ということです。
「社会に適応するための能力」を分かりやすく言えば、共通の言語、共通の習慣、共通の認識……そういうもの(こと)です。
それらは個体が持っている根元的な部分(価値観など)に作用することです。
言い換えれば、それを身に付けるということは、個性的なもの(こと)を排除していくことでしかないということですが、それが理解できるでしょうか?

しかしながら、それらの全ては学校で身に付けるものではありません。
学校で身に付けるものは、実は……それらの半分未満でしかない……。
なぜなら学校は、生活の場ではないからです。
生活の場でないところでは、生活に関することは身に付きません。
したがって衣食住に関すること……例えば箸の持ち方や衣類のたたみ方、礼儀作法などについては学校以外の場で教えるべきことです。
それは家庭が責任を持ってすべきことなのですが、それを学校に依存していたりします。
その能力を親が持っていれば、親が教えれば良いですし、親に能力がなければ誰か……例えば祖父母や○○教室などに頼れば良いだけの話です。
その時間がないとかお金がないというのは、ただの言い訳ですし、祖父母とは別居というのも親の都合でしかありません。
その都合を誰か……この場合は学校……に押し付けているだけの話であり、それをワガママと言わないで何をワガママと言うのでしょうか?

その誤認が大きくなるとモンスターに繋がったりするのでしょうし、それが教育行政に繋がったりすると学校が本来の機能を果たせなくなります。
これが教育現場の混乱の根底にあるのだと思います。
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